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大境洞窟発掘調査100周年記念リレーコラム『大境』第5回 井上江花 1918年の夏

 1918年の夏、井上江花は忙しかった。100年後にも輝く二つ大きな業績、大境洞窟の発見と、米騒動勃発の報道である。大境洞窟の発見と調査は6月末から7月中旬にかけて、8月からは米騒動の情報発信に努めた。いずれも本年に100周年記念事業が企画されている。井上江花の存在抜きでは、全国各地の考古学・人類学研究者の大境洞窟の調査、さらに国指定史跡としての保存は無かったであろう。よく知られている米騒動につては、江花が主筆だった高岡新報が富山県の情勢をいち早く全国に発信し、それまで地域的な恒例行事であった富山湾沿岸の米騒動が全国に波及する契機の一つとなった。ジャーナリズムの社会への影響が再認識されることになった。しかし、当初、高岡新報は米騒動の報道に出遅れた。7月中旬から胎動し始めた民衆の動きに、大境の調査に熱中していた紅花は気づかなかったのであろうか。その後8月に入ってからはそれまでの遅れを取り戻すかのように米騒動の記事を県内外に配信した。そのため県からの弾圧も経験することになった。
(副会長 麻柄一志)
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大境洞窟発掘調査100周年記念リレーコラム『大境』第4回 朝日貝塚の大珠(1)

 富山県内出土品のうち考古資料の分野で国指定重要文化財となっているのは二点(二組)あります。一つが朝日町境A遺跡出土品一括で、もう一つが氷見市朝日貝塚出土のヒスイ製大珠(たいしゅ)です。読んで字のごとく、縄文時代に作られた巨大な玉です。身を飾る装飾品というより宝器的・呪術器な意味合いが強いものと考えられています。

 朝日貝塚出土の大珠は、日本で最大、最高品質のものです。昭和の初年(一桁代)に朝日貝塚内の道路工事の際に発見され、湊家にもたらされて所蔵されることとなりました。当時のご当主、湊嘉平治氏が文化や歴史に深い造詣があり、また出土地の土地所有者でもあった可能性が高かったことが要因ではなかったかと思っています。

 この大珠は鰹節形で、長さは16センチ、重量は470グラムという巨大なものです。中央やや上部に直径7ミリほどの貫通孔が開けられており、見事な優品というほかありません。戦後この大珠を湊家で実見調査した当時文化庁の野口義麿氏は、ひと目見るなりこれはぜひ重要文化財に指定したいと言われたそうです。

 湊家所蔵のまま、氷見市立博物館がオープンしてしばらくの間は、朝日貝塚の注目される出土品として寄託展示されていました。

 その頃私は恩師戸沢允則先生の勧めで朝日貝塚の紹介文(※1)を書くことになり、何か目玉になるものはないか考えていました。そこで、大珠の実測図を掲載することを思い立ちました。初代富山考古学会会長を永く務められた湊晨先生を、私は高校生の頃から存じ上げており、仲人もしてくださった経緯もあったので、おそるおそるお願いしたところ、すぐに了解を得られました。博物館で重要文化財の大珠を実際に手にし、じっくり観察して図面を作成した時の興奮はまだ覚えています。

 この本に掲載されている実測図はもちろん初めて公表されたもので、湊晨先生のご配慮の賜物として忘れることができません。
(この項つづく) 

※1「朝日貝塚」『探訪縄文の遺跡-東日本編-』、有斐閣選書R、昭和60年
(会長 山本正敏)

大境洞窟発掘調査100周年記念リレーコラム『大境』第3回 「最初に出会っていた遺跡」

 大境洞窟遺跡が発見されてから今年で100年になる。何か思うところを述べよという。

 遺跡というものに出会ったのは高校1年の時で、最初に出会った遺跡は中山南遺跡である、とこれまで思い込んでいた。今年になって、小学校6年の時に大境洞窟を訪れていたことを思い出した。昭和39年8月19日、社会見学は氷見方面であった。当時、洞窟前に大きな字で「大境洞窟遺跡出土品」と書かれたプレートの下に6枚の写真が展示され、その右どなりに説明板が立っていた。遺跡への興味は、この時に芽生えたのかもしれない。
(副会長 久々 忠義)

大境洞窟発掘調査100周年記念リレーコラム『大境』第2回 「大境洞窟の石棒」

 大正7年(1918)に大境洞窟遺跡発掘調査の端緒となった白山社の社殿改築時に出土した大型石棒は、当時『高岡新報』が「…長さ三尺廻り一尺八寸の大砲弾の如き石…」と報じている。この石棒は小島俊彰名誉会員によって鍔と彫刻を持つ縄文時代中期中ごろに作られたことが知られている。
 2000年3月に氷見市史考古資料編調査のため、石棒が保管されている東京大学総合研究博物館で実測した際、その大きさと彫刻の見事さに圧倒された。石棒は全長95㎝、最大径20㎝で、傷みも少なく、4000年以上も洞窟内でよくぞ遺っていてくれたという思いである。
(理事 西井龍儀)

大境洞窟発掘調査100周年記念リレーコラム『大境』第1回 「大境洞窟と朝日貝塚」

 昨年のこと、大学時代の同級会(大塚初重先生クラス)で、横須賀在住のN君から「来年は大境洞窟発掘百年を迎えるけど何かしないの?」と尋ねられて私は絶句。迂闊でした。恥ずかしながら全く思いもよりませんでした。

 N君は岡本勇先生の弟子を自認していて、三浦半島に多く分布する弥生時代海蝕洞窟遺跡の研究をライフワークとしています。その分野の著書もあり、大境洞窟や朝日貝塚の古写真が國學院大學に柴田常恵氏旧蔵資料として保管されていることを教えたこともあります。

 時代・地域を異にしても、日本で最初に調査された洞窟遺跡のことを、研究史の中できちんとその重要性を認識しているN君はさすがだなと思いました。

 さて、「大境洞窟」と同時に忘れてはならないのが、同じく発掘百周年を迎える「朝日貝塚」です。大正7年(1918年)に同じ氷見市内にある両遺跡を柴田常恵氏らが発掘調査しました。その調査成果によって、大境洞窟は縄文土器が弥生土器より古いことが層位的に確認できた洞窟遺跡として、朝日貝塚は縄文時代の住居跡が明確に確認できた貝塚遺跡として、大正11年(1922年)にそれぞれの分野で日本最初の国指定史跡となりました。氷見市内二か所の遺跡が同日付をもって記念すべき史跡に指定されたのです。

 ここでは富山考古学会の機関誌名にちなんで「大境洞窟」に関するリレーコラムと言いながら、私にとっては「朝日貝塚」のほうがいろいろと興味深いものがあります。そこで、同時に発掘されたよしみでお許しをいただき、朝日貝塚に関することを次回以降に掲載させてもらいたいと思っています。
(会長 山本正敏)

大境洞窟住居跡発掘調査100周年記念 リレーコラム「大境」の連載について

 富山考古学会機関誌のタイトルである「大境」は富山県氷見市に所在します“大境洞窟住居跡”に由来します。

 大境洞窟住居跡は大正7(1918)年6月中頃※1に白山社の社殿改築のため地盤を掘り下げたところ遺跡の発見されました。このことは『高岡新報』に記事が記載され、更に『東京朝日新聞』の7月1日号に記事となりました。この記事を確認した東京帝国大学の柴田常惠氏によって7月4日より調査がなされました。ただちに『人類学雑誌』第33巻第7号(大正7年7月25日発行)に柴田氏より報告※2がなされました。
 その後9月28日より試掘トレンチ調査がなされ、層位学的に縄文時代が弥生時代に先行することが証明されました。

 この大境洞窟住居跡発見100周年を記念しまして、富山考古学会会員によるリレーコラム「大境」をこのHP上で連載します。
 最初のコラムニストは富山考古学会会長、山本正敏です。
 お楽しみにしてください。 


※1 長谷川言人 1927 「大境洞窟の遺蹟に就て」『先史学研究』によると、「6月15日頃」とされる。
※2 
柴田常惠 1918 「越中国氷見郡宇波村大境の白山社洞窟」『人類学雑誌』第33巻第7号

oozakai_s.jpg大境洞窟住居跡




プロフィール

富山考古学会

Author:富山考古学会
1949年に設立。会の目的は、おもに富山県の考古学調査と研究、考古資料をはじめとする文化財の保存と継承、そして新人の指導。学会誌『大境』と連絡紙を発行。シンポジウムなどの研究活動、遺跡整備事業などに貢献。2008年、文部科学大臣表彰を受章。2011年、日本学術会議協力学術研究団体に指定。
※写真は氷見市大境洞窟(国史跡) [氷見市立博物館蔵]

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