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富山市新庄城跡の現地説明会が開催

12月7日(土)、富山市新庄城跡の現地説明会が開催されました。
小雨が降る寒空でしたが、200人以上もの参加者がありました。越中戦国史を彩った城ですので関心が高かったのでしょう。新聞各紙でも大きく取り上げられました。

調査は、新庄小学校の体育館改築工事にともなって行われました。

新庄城は、戦国期の上杉謙信や佐々成政の合戦の舞台となった城で、文献にも登場します。城の遺構は多くが削られていましたが、幅7~10mの大規模な堀などが残っていました。この堀は調査途中で詳細は今後の調査によります。

文献にある新庄城の堀が発見されたわけですが、調査のメインとなったのは、むしろ新庄城の築城以前に存在した館跡でした。15世紀前半から堀を伴う館が存在したことが明らかになり、16世紀前半までに堀は3回造り替えられ、規模が徐々に大きくなっていました。こうした歴史のある場所に戦国期の新庄城が築かれたということです。
一帯はかつて「御屋敷山」と呼ばれていたとのこと。新庄城築城以前から重要な位置を占める場所であったことがわかります。

参加者は、富山市埋蔵文化財センターの堀内学芸員の解説に聞き入っていました。小学校の校歌に「明治のはじめ 城あとを嗣(つ)いだ学び舎」とうたわれている城ですので、地元の方は特に興味深かったでしょう。高齢のご婦人が、遺跡をバックに写真を撮ってと熱心に言っておられるのが印象に残りました。

関係者のみなさま、お疲れさまでした。

(野垣好史)

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高岡城跡で現地説明会(高岡市)

高岡市教育委員会は、5か年にわたる高岡城総合調査の最終年の発掘を行い、本丸貫土橋地区と射水神社境内における調査成果を7月29日に一般公開しました。

昨年に引き続き行われた朝陽橋付近の「貫土橋」の調査では、石垣裏込の栗石層の厚さが確認されたほか、石垣の上方から2が所の整地面が確認され、うち1か所は、本丸から降りてくる通路である可能性が指摘されました(写真上 ○印が整地面)。

射水神社境内裏からは、土塁下端部において石積遺構の一部が検出されました。割石を2~3段に積み、最上部の1石には、「卍」の小型刻印と矢穴が確認されました。
この石積遺構はコの字形で、さらに南西(写真下の左側)に広がるとみられ、土塁に並行して延びていたと推定されます。これまで存在の可能性が薄いとされていた神社境内にも遺構が残っていることが分かり、今後に期待が高まりました。

石積みは慶長期の可能性が大きいとされましたが、土塁を切り込んでいること、石材が小ぶりであることなどから、構築年代については十分検証が必要と思われました。

これまで高岡城の歴史の見直しに大きな成果を挙げてきた発掘調査は、今年度でいったん完了し、年度末に報告書にまとめられる予定です。今後、小竹藪の性格や土橋石垣の年代、史料にみる本丸つきどめ石垣の同定などの大きな課題の解明に取り組んでいただきたいと考えます。

立山室堂玉殿窟の焼けた骨片について

 県埋蔵文化財センターが昨年9月に実施した玉殿窟の発掘調査で、焼けた骨片が74点出土した。この骨片は火葬された人の骨の可能性が高いことを、2月16日に開催した立山・黒部山岳遺跡調査指導委員会で報告した。昭和37年に行われた玉殿窟の発掘でも骨が出土しているが、報告書では「動物の骨と思われる」としている。

 富山大学大学院医学薬学部研究部解剖学教授大谷修先生にこの骨片を見てもらったところ、大きさは人または人に近い動物であること、内耳孔の部位、蝶形骨、こめかみ付近の骨など頭部の骨が多いこと、骨は細かくて火葬した時の状態に近いことが分かり、人の骨の可能性が高いと判断された。

 廣瀬誠氏は、平成5年に室堂平で人骨を納めた塚が発見されたことを紹介し、立山に納骨に関する文献は見当たらないけども、納骨の習俗があったことを指摘している。室堂小屋から玉殿窟へ下る道の脇の大岩上にも同様の骨片がみられるので、立山に納骨が行われたことがあったことは確実とみられる。

 それでは、それはいつ行われたのであろうか。珠洲の壺や洪武通寶が一緒に出土していること、窟内に14世紀代に作られたとみられる半跏地蔵石仏があることから、その頃ではないかと考えている。そうであれば、その時期は先祖供養・死者鎮魂のための霊場であったことになり、それ以前を修験者が山岳練行する修行場、江戸時代が極楽往生・現世利益を願う場であったとみると、立山信仰史上の一つの画期といえるのではないかと考えられる。

 しかし、近年の研究によると、各地の霊山での納骨は江戸時代以降のものが多いという。そのような考えが成り立つのかどうか。人の骨であることや年代の特定が必須であり、理化学的分析等を行う必要があるものと考えている。
(久々忠義)

出来田南遺跡から荷札木簡(高岡市)

県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所は、1月27日、奈良後半を主体とする高岡市出来田南(できでんみなみ)遺跡から、「丸部(わにべ)」の氏族名が書かれた荷札木簡が出土したと発表しました。川跡から出土したもので、富山大学鈴木景二教授(本会会員)が「丸部飯刀自女上米一半」と解読されました。周囲には倉庫跡などの建物遺構が多数あり、施設を示すと思われる「大家(おおやけ)」の墨書土器の存在から、米を集積する事務所の存在が推定されました。

この周囲は、東大寺領鳴戸荘のエリアとされており、その関連遺跡と考えられていますが、調査ではそれを特定する資料は発見されていません。

富山城内堀の底を確認!(富山市)

公共下水道事業に伴う富山城址公園内の発掘調査で、富山城西ノ丸北西の堀跡が地下6mから検出されました。ちょうど西ノ丸北西角の部分にあたり、これで富山城の重要な郭の位置をすべて確定することが可能になるといった、重要な成果を得ることができました。これにより西ノ丸西側の堀の位置は、これまの復元より西へ10mほど広がることになりました。

1月13日に現地説明会を行ったところ、雪の降る中90人もの参加者がありました。富山城の堀底を目にできるのは、おそらく今回限りと思いますので、参加された方はとても貴重な体験になったと思います。

日本海文化の提唱者 森浩一同志社大名誉教授が富山で講演

平成23年12月3日(土)富山市民プラザにおいて開催された第31回富山市民大学祭特別講演会において、元富山市日本海文化研究所顧問、同志社大学名誉教授の森浩一氏が、「古代日本海文化と越中富山」と題し講演されました。

富山市における11回の日本海文化を考えるシンポジウムの開催・日本海文化研究所の設置は、「裏日本」から「日本海地域」といった用語の転換のみならず、地域性・地域文化の解明といった今日的な地域史の基礎を確立するといった大きな役割を果たしたことを説明された上で、潟湖・ヒスイ・出雲・信仰・大伴家持・蝦夷などのキーワードから、日本海文化の特質について話されました。

森浩一先生のご指導のもと、富山市で日本海文化研究を大きく推進された藤田富士夫氏(本会副会長)の研究成果も紹介されながら、今後のご自身の研究課題について熱く語られました。市日本海文化研究所は昨年3月をもって四半世紀25年間の歴史の幕を閉じました。

二本榎遺跡で古墳後期の横穴式石室の古墳発掘(富山市)

12月3日(土)富山市婦中町小長沢地内の二本榎遺跡で、横穴式石室をもつ古墳後期の円墳が確認され、富山市埋蔵文化財センターが現地説明会を行いました。

直径14mで、南側に羨道があります。石室は玉石積みで、長さ3.7m、幅1.2mの無袖式あるいは片袖式と推定されます。周溝からは祭祀に使われた須恵器が見つかりました。横穴式石室をもつ古墳の調査は20年以上ぶりで、周溝を含めた全体が発掘されたのは今回初めてです。

詳細は総会で発表予定です。

プロフィール

富山考古学会

Author:富山考古学会
1949年に設立。会の目的は、おもに富山県の考古学調査と研究、考古資料をはじめとする文化財の保存と継承、そして新人の指導。学会誌『大境』と連絡紙を発行。シンポジウムなどの研究活動、遺跡整備事業などに貢献。2008年、文部科学大臣表彰を受章。2011年、日本学術会議協力学術研究団体に指定。
※写真は氷見市大境洞窟(国史跡) [氷見市立博物館蔵]

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